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岩波文庫の西田幾多郎哲学論集3『自覚について』の解説で上田閑照氏が次のように書いている。
昭和二十年三月十四日の書簡に「我国の現状については……不幸にして私共の予見していた通りになりました。……民族的自信を武力に置くというのが根本的誤ではないかと思うのです」とある。同年五月十一日鈴木大拙宛にも「猶太人がバビロン捕囚の時代に世界宗教的発展の方の 基礎を作った 真の精神的民族は斯くなければならぬ 民族の自信を唯武力と結合する民族は武力と共に亡びる。」という。そしてドイツ降伏にふれて「無理が通れば道理が引込むという諺もあるが無理はやはり遂には通らぬものらしい 今の人は力信仰の全体主義が新しい行方のようにいうが 逆にそれは旧思想で最早時代錯誤であり 新しい方向は却ってその逆の方向に即ち世界主義的な方向にあって 世界は不知不識その方向に進んでいるのではなかろうか」と書いている。 以上はしかし、単にいわゆる戦況が切迫したから言われた言葉てはなかった。昭和十七年三月宛の書簡にいう、「こう世界中の人狂うて遂にいかがなるのか 一人の達識の人なきか 遂にノアの洪水来らん」。 昭和十六年十二月八日太平洋戦争勃発当日の西田を弟子の一人相原信作(当時第三高等学校教授)が次のように伝えている。 真珠湾の攻撃がはじまった日……学校での仕事を終わって私はグラウンドの西の電車通りに出た。妙に街全体が静まり返っていた。それは何時頃だったろうか。空はどんより曇って全体の印象は夕ぐれのようであった。私は丸太通りに出て、橋近くの新聞店で、学校では未だ聞かなかった色々のニュースが大きな活字で印刷してある新聞(号外)を見た。私はそれを買い集めて病院の西田先生のところに行った。[西田は同年十月以来の強度のリューマチのため加茂川に面した京都府立病院に入院していた。] はたして先生はまだ今日のことについて何も知って居られなかった。号外の大きな紙に麗々しく印刷せられた、いわゆる大戦果、敵の太平洋艦隊が一挙に殆ど壊滅したというような記事の内容を御伝えしたときの先生の憂慮に満ちた御顔、大へんなことを仕出かしてしまった、というような満面の憂いを私は忘れることが出来ない。そのいわゆる大戦果に動かされた色など先生の顔面にも全身にも豪末も見られなかった。そのときの先生の全身はただただ深慮であった。先生の直覚はこのとき既に日本の民族の非命を透見るせられたのである(『西田寸心先生片影』昭和二十四年黎明書房版所収)。 また、414頁上田の解説からさらに引用。 明治三十八年(1905年)一月五日の日記(当時西田三十五歳、金沢在)の記事に「午前打座。午後打座。正午公園ににて旅順陥落祝賀会あり、万歳の声聞こゆ。今夜は祝賀の提灯行列をなすというが、幾多の犠牲と、前途の遼遠なるを思わず、かかる馬鹿騒ぎなすとは、人心は浮薄なる者なり。夜打座。雨中にも関せず、外は賑わし。」外では昼も夜も日露戦争旅順陥落の祝賀の賑わい。西田は幾多の犠牲と前途の遼遠を思う。 その「前途の遼遠」は四十年後事実、「世界」戦争と近代日本の破局という更に激しい歴史的現実として最晩年の西田に迫ったのであった。 人気ブログランキング にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2017-12-19 22:28
| 随筆
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