最新の記事
以前の記事
カテゴリ
記事ランキング
ブログジャンル
最新のコメント
フォロー中のブログ
風のたよりー佐藤かずよし 日本がアブナイ! 広島瀬戸内新聞ニュース(... そうはちのコラム そうはちのコラム2 御言葉をください 命最優先 大山弘一のブログ 放射能に向き合う日々 世に倦む日日 社会の動向・住まいの設計 最新のトラックバック
検索
タグ
キリスト・イエス(3643)
教会(3000) 安倍晋三(2024) 森友学園(1566) 加計学園(1390) 共謀罪(159) 日本基督教団(137) 佐藤優(64) 天皇制(42) 辞書(36) ブログパーツ
外部リンク
ファン
メモ帳
ライフログ
その他のジャンル
画像一覧
|
選ぶことには捨てることも含まれている。何かを選ぶことは何かを捨てることも含まれている。選ぶという行為を始めたとき、そのことも始まっている。
今、わたしたちは、将来、いつのことになるかまだ決めているわけではないが、この牧師館を出でいくことになることを念頭に、整理を始め、捨てるものは捨て、ひとに譲るべきものは、譲る用意をしている。 その前に整理をする必要があるので、それをしている。この「整理」ということは、仕事をする上で大事なことなので、ただ牧師館を出て行く時のことだけを考えているわけではない。 しかし、今、手持ちの乾電池をテスターを使って、どのぐらい電力が残っていてるか調べてみて、残量が少なくなっているものは、捨てているのだが、そこで「選び」ということを考えた。この「選び」という言葉は、聖書にもしばしば出て来るのである。 宗教改革者ジャン・カルヴァンは、永遠の昔、天地創造以前に、神は「救いに定められた者たち」とを決められていたという「二重予定説」を彼の主著である『キリスト教綱要』でかなり大きな部分を使って展開した。「ドルト信仰規準」には、二重予定説が強調されている。 これは、「神の恵み」ということを考えた時に、議論を徹底すれば、「予定説」の問題はでてくるのである。神が「予め」「予定」されていた、ということである。神は恵みを与えようと思う者に恵みを与えられるということである。これは、消極的に言えば、恵みを与えられない者が残るということになる。全員を選ぶというのは「選ぶ」という言葉をほとんど意味のないものにする。 さて、マルティン・ルターをはじめとする宗教改革者たちは、「信仰と行いの二つによって」義とされるのではなく、「ただ信仰によってのみ」と言った。特にルターは「のみ」と強調したので、nurist と揶揄された。nur はドイツ語で「のみ」という意味である。これがいわゆる「信仰義認」の教えなのだが、「信仰義認」について考えていると「神の恵み」に思い至ることになり、「神の恵み」を考えると「神の選び」を考えざるを得なくなる。 少し、書き足りなかったので書いておくと、「信仰義認」とは「善い行いを行うことによつて、神の前に義と認められるというのではなく、神の約束を信じることによって、義と認められるということである。「行為義認」というのは「律法を守り、善い行いをすることによって、神によしとされる。」というものである。この場合、人間は神の与えられた律法を守ることができるし、努力することによって、神の前に正しい人間として立つことができるという考え方である。この考え方に立つと、わたしたちに救い主イエス・キリストは必要のないことになる。人間一人一人は、努力しさえすれば、自分で自分を救うことができるので、救い主であるイエス・キリストは必要なくなるからである。 このような議論になるが、純粋な「行為議論」が主張されることはほとんどないと言ってよいだろう。実際には「信仰と行いの両方とによって」と主張がされている。ルターの「信仰義認」の主張に対して、反対する人たちは「信仰と行為による義認」を対置したのである。しかし、これは、たとえば、救い主は100%救いの業をなさったのではなく、95%ぐらい救いの業をされ、後5%は、自らの努力で自分の救いを達成しなければならない、という考えに陥らざるを得なくなり、イエス・キリストの救いのわざを限定的なものとすることになるのである。 わたしはそれゆえ、はっきりルターの側に立ち、「信仰のみ」という。わたしは「神の恵みを無にはしない」のである。 さて、問題は、「信仰義認」から、必然的に「二重予定」が帰結されるのか、という問題がある。このカルヴアンの二重予定説は、ある種の冷たさを感じさせるものであり、わたしは、カルヴァンの二重予定説を最初に読んだ時から、違和感を持ち、首肯できないものがあった。「信仰義認」の教えを喜びをもって受け入れた私ではあったが、「二重予定説」を困惑を持って読んだのである。これは、「神は愛である」と聖書に書いてあることに背く何かがある、と感じたのである。 その後、私はカール・バルトの「神の恵みの選び」の教説に出会った。そして、それをほとんど受け入れている。部分的に、バルトの言っていることと、新約聖書の言っていることが完全に整合しているように感じられないところもないわけではないが、カルヴァンよりバルトの方に私は立っている。 バルトは、カルヴァンの予定説には、「神の絶対的な意志」があるとしていて、それを二重の予定にしていることに疑問を出して、神の絶対的な意志、神の永遠の昔における原決断は、イエス・キリストこそ、「神に選ばれた者であり、神に捨てられた者である」ということである、と言っている。最初で、根源的な選びはイエス・キリストであり、これは「神の恵みの選び」である、と言っている。このバルトの予定説については、また、機会があれば書こう。 人気ブログランキング にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2017-11-21 11:59
| 随筆
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||