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今日、わたしが礼拝でした説教を収録しよう。
わたしはある ヨハネによる福音書8章21~30節 そこでイエスは言われた。「あなたたちは、人の子をあげたとき初めて、『わたしはある』ということを、また、わたしが自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話したことが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。 わたしをひとりにはしておかれない。わたしはいつもこの方の御心に適うことを行なうからである。」(28,29節) (お集りの皆さん)、「わたしはある」という説教題をつけさせていただきました。「わたしはある」と聞いて、皆さんはどう思われたでしょうか。「違和感を感じる」と思われたのではないでしょうか。「日本語として変な日本語だ」と感じられたのではないでしょうか。確かに、わたしたちは、ここで、ふだん耳にすることのない言葉を聞いたのです。しかし、これは説教者である私が勝手に考え付いた言葉ではありません。聖書に書いてある言葉をそのまま、説教題にさせていただいたのです。さきほど読んでいただいた個所に2度、この言い方が出てきていました。最初は24節にあります。 「わたしはある」ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。 また、28節にもあります。 あなたたちは、人の子を上げたとき初めて、「わたしはある」ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう。 これは二つとも、イエスが言われた言葉です。イエスは、今日のところで2回も、「わたしはある」と言われているのです。こうお話ししまして、昔から聖書を読まれている方たちは、疑問を持たれるかもしれません。「はて、このような言葉が以前の聖書にあっただろうか。覚えがない」と。それはもっともな思いなのです。実は、わたしたちが前に使っていた口語訳聖書には、この「わたしはある」はありませんでした。また、もっと古い文語訳聖書にも、「わたしはある」という言葉はなかったのです。ところが、この一番新しい「新共同訳聖書」では、こういう訳になつている。どうしてなのでしょう。これは、新共同訳聖書を翻訳した人たちが、よく考え、よく話し合った上で、このように翻訳したのだと思われます。「わたしはある」が「」でくくられていることからもそれはわかります。翻訳した人たちは、ここに注意してほしいという願いをもって、この個所を敢えて、耳になじみのない日本語で翻訳したのです、そうした方がいいという判断があったのです。 ここで翻訳される前のギリシャ語原文に戻ってみますと、そこにはεγω ειμι (エゴ エイミ)という言葉が書かれています。この「エゴ」は「エゴイズム」の「エゴ」と同じで「わたしは」ということです。「エイミ」は、「ある」です。だから直訳したら、「わたしはある」です。変な日本語ですけれども、直訳した方がいいと訳者たちは考えた。そして、わたしも、このように翻訳してくれて良かったと思っています。そのことによって、この『ヨハネによる福音書』を書いた著者ヨハネが伝えたいと願ったことが、読み取りやすくなったからです。ひょっとしたらギリシャ語でも、この言い方は、きわめて異例なものかもしれません。 さて、ここで「わたしはある」と言われている方は、イエスです。ナザレのイエスと呼ばれた方です。この方は、ヨハネによる福音書では、「わたしは何々である」という言い方をよくされています。 「わたしは世の光である」 「わたしは世の命である」 「わたし天から降って来た生きたパンである」 「わたしは良い羊飼いである」 「わたしは、ぶどうの木、あなたがたはその枝である」 「わたしは復活であり、命である」 そして、一番短い言い方で「わたしはある」とおっしゃっている。この言い方で、イエスはわたしたちに何を語ろうとしているのでしょうか。 仮に、ここで、私、こかくが「わたしはある」と言ったとします。そうすると、何だか変な言い方だけれども、確かにこかくという人は、そこにいる、ということに皆さんの方からは言えると思います。「私はある」というのは、「私は存在する」「生きている」という意味になるでしょう。しかし、わたしはいつまでも「ある」か。わたしは現在69歳ですから、71年前には、母親の胎内にもいなかった。そして、あとどれだけ「ある」ことができるかわかりません。私は「わたしはある」といつまでも言えるわけではありません。死ぬからです。これは、皆さんお一人一人も同じです。皆さんや一人一人も、少し妙な言い方ですけれど、「わたしはある」と言うことはできます。それはウソだということはできない。けれども「わたしはある」というのには、限界があります。 ところが、ここで「わたしはある」とおっしゃっている方は、限度なく「ある」と主張されているように聞こえます。わたしたたち一人一人の人間が「ある」という時、それは「なくなる」ことがある「ある」です。わたしたちはいつまでも「あり続ける」ことはできない。しかし、ここで「わたしはある」とおっしゃっている方は、「わたしはいつまでもあり続ける」と言われているように聞こえるのです。 そうして、私は、旧約聖書に書かれているある言葉を思い浮かべずにはいられないのです。それは出エジプト記の第3章にある言葉です。それは、エジプトから逃げていたモ-セが、神の山ホレブで聞いた神の言葉です。そこで、神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われたのでした。出エジプト記3章13節から14節まで読みます。 モーセは神に尋ねた。 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うに違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」 お気づきになったでしょうか。ここで、神はモ-セに「わたしはある」ということを三度言われているのです。この「わたしはある」というのは70人訳のギリシャ語訳聖書、セプチュアギンタによれは、「エゴ エイミ ホ オーン」となっていて、「ホ オーン」という言葉がつけられていて、ただ「エゴ エイミ」ではありません。そういう違いはありますが、実は、イエスがここでおっしゃっている「わたしはある」という言葉は、出エジプト記第3章で、神様がおっしゃっている言葉を強く思い起こさせるような言葉です。 それで、今度は、もう一度、既にご一緒に読んできたヨハネによる福音書5章17,18節を振り返って読んでみます。そこで、イエスは、御自身を神と等しい者とされています。 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」のためにユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。 さきほど、わたしは、わたし、こかくも「わたしはある」と言うことができる、と言いました。しかし、それは人間の「ある」です。神の「ある」ではありません。永遠の命を持っておられる神の「ある」ではないのです。しかし、ここでイエスは驚くべきことを語っておられます。「わたしはある」。これは神の言われる「ある」でしょう。そこで、8章の24節でイエスが言われたことをもう一度、聞きましょう。 『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。 ここでイエスが「わたしはある」ということを信じなければ、と言われているところに注意したいと思います。ここで「わたしはある」ということを信じると言われています。わたしが言いたいのは「信じる」という言葉が使われているということです。わたしこかくが「わたしはある」と言っても、それは信じることではありません。「ああ、こかくさんは確かにそこで立って、ものを言っている」という事実を認めることでしかありません。ですから、ここで、イエスが言われていることは、信じることだということです。見て、触って確認できることではないのです。イエスが「わたしはある」という方であるということは信じることしかできないことなのです。 イエスは、今日の聖書の箇所(8章21~30節)で、御自分が十字架の上に上げられて、父のもとにかえろうとされている、ということを言われています。ヨハネによる福音書では、「上げられる」ということは、十字架のうえにあげられることであり、神のもとに上げられることでもあります。神の独り子は、もとおいでになったところに「世の罪を取り除いて」戻られる、ということです。 ヨハネによる福音書の冒頭、1章18節にこういう御言葉があります。 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。 今や、神のみ子は、もといたところに戻ろうとされている。ここで語っている人たちが思っているいるように「自殺しよう」としているわけではありません。確かに、死に向かってはいるけれど、それは死の力を打ち破って復活することに向かっての歩みであり、父のもとに戻ることでもあるのだ、ということです。それは「世の罪を取り除く」ことに向かっての歩みでもある。それが神の子イエスの戦いなのです。 最後に、28節から30節まで書かれていることをお読みしましょう。 そこでイエスは言われた。「あなたたちは人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることがわかるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行なうからである。」 ここで語られている方こそ、世に来たるべき方、神の子メシアなのです。 祈ります。 わたしたちの主なる神様 わたしたちに御子を通して御言葉を聞かせてくださいましたことを感謝いたします。 どうか、わたしたちがしばしば、イエス・キリストの御言葉について思いをめぐらし、そこで語られていることを、わたしたちがよく聞きとり、理解することがゆるされますように。どうか、わたしたちの心の耳を開いてくださり、聖霊によって語ってくださいますようにお願いいたします。 今日集うことのかなわなかったお一人一人をその場その場で守り、導いてください。 わたしたちは、この礼拝のあと、それぞれの生活の場、また仕事の場に戻りますが、それぞれ置かれているところで、キリストを証することがゆるされますように、わたしたちに力をお与え下さい。 そして、また、一週間の歩みを終えた後またこの場に集い、御前に出て、礼拝を捧げることがゆるされますように。 病院やホームなどで生活している方たち、礼拝に集うことのかなわないお一人一人を支え、守り、導いてください。 御子イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 人気ブログランキング にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2017-11-19 15:18
| 随筆
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Comments(1)
Commented
by
匿名希望
at 2017-11-21 14:27
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出エジプト記の「私はあってある者」は神様のお名前でありどんな性質を持たれる方なのかを表すのでしょう。
ヤハウエでなかったかと言われていますね。 イエスさまが「私はあってある者である」と宣言された時の周囲の驚きは倒れる者が出るほどの事です。 「こかくがある」などと冗談にも言ってはならないでしょう。 周囲にはあなたに忠告してくれる方がおられないのでしょうか。 コメントがほとんど無いのは消去しているからですか。 「裸の王様」状態でお気の毒です。 72歳の老爺の戯言です。
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