最新の記事
以前の記事
カテゴリ
記事ランキング
ブログジャンル
最新のコメント
フォロー中のブログ
風のたよりー佐藤かずよし 日本がアブナイ! 広島瀬戸内新聞ニュース(... そうはちのコラム そうはちのコラム2 御言葉をください 命最優先 大山弘一のブログ 放射能に向き合う日々 世に倦む日日 社会の動向・住まいの設計 最新のトラックバック
検索
タグ
キリスト・イエス(3643)
教会(3000) 安倍晋三(2024) 森友学園(1566) 加計学園(1390) 共謀罪(159) 日本基督教団(137) 佐藤優(64) 天皇制(42) 辞書(36) ブログパーツ
外部リンク
ファン
メモ帳
ライフログ
その他のジャンル
画像一覧
|
宗教改革者ジャン・カルヴァンが、主著『キリスト教綱要』の最後の章の最後の節で書いたことは以下のようなことである。渡辺信夫(旧)訳。
32 しかし、支配者の命令に対して捧げねばならない、とわれわれの説いた服従には、つねに次の例外がある。あるいは、例外というよりむしろ、第一に守られねばならない規範がある。それは「支配者への服従は、われわれを神ーすなわち、その御意志のもとにすべての王たちの誓いがおかれ、その御定めのもとに王たちのもろもろの命令が従属し、そのみいつのもとに王たちの権力のしるしが服すべきである神ーに対する服従から連れ去るものであってはならない」ということである。まことに、人間を満足させようとして、あなたがその人間に従うのはそのためであったところの神の御怒りを引き起こすとは、何という転倒したことであろうか。 したがって、主こそは王たちの王でありたもう。かれが聖なる御口を開きたまうときには、すべてのものをさしおいて、すべてのことよりも先に、ただちにかれに耳を傾けなければならない。われわれがわれわれの上に支配する人間に臣従するのは、その次のことである。しかも、ただ主においてこそ、支配者に従うのである。 もしもかれらが、神に反逆して何かを命令するならば、われわれはそれを決して認めてはならない。また、このとき、われわれは官憲が持っている威厳に何らかかずらってはならない。すなわち、この威厳は、順序としては、唯一の・そして真に最高なる神の権能のもとにおかれる以上、これに対して何らの不正をしたことにもならないのである。 この理由によって、ダニエルは、王の不虔な勅令に従わなかったとき、何ら罪を犯しているのてはない、と言明するのである(ダニエル6.22). なぜなら、この王は自己の分限を踏み越え、単に人間に対して侵害するのみでなく、神に背いて角を振り立て、自己の権能を自ら廃棄したからである。その逆に、イスラエル人は「ホセア書に」王の不敬虔な布告に余りに従順すぎたゆえをもって、断罪されている(ホセア5.13)。すなわち、ヤラベアムが金の子牛を作ったとき、かれらは王を喜ばせるために、神の宮を捨てて、新しい迷信へとそれて行ったのである(列王一12.30)。かれらの子孫も同じように、唯々諾々と王たちの決定に屈し(て、偶像にひざをかがめ、王たちの流儀にならって忌むべきことを行っ)た。預言者は、王の命令を受け入れたことについて、民らをきびしく非難したのである。 まことに「ひかえ目」という口実を、宮廷のへつらい人どもは用いて、自らをよそおい、単純な人たちをあざむき、およそ王たちから課せられることを拒絶するのは正しくない、と弁解しても、その控え目は賞賛にはるかに価しない。これはまるで、神が王たちに、人類を支配させることによって、御自身の権利を、死すべき人間に譲渡したもうたかのように、見ることである。あるいはまた、地上の権力は、それの創始者に服するならば、縮小される,というかのようである。この創始者の前では、天上の「支配」も、祈願するものとして、ふるえおののくというのに…… さて、わたしは、以上述べたところを毅然としてつらぬくとき、どのような危険が迫るかをよく知っている。すなわち、王たちは、自分が軽んじられると、これを最も忌み嫌うのである。「王の怒りは死の使いである」とソロモンは言う。けれども、天からの使者であるペテロによって、「人に従うよりは、神に従うべきである」と宣言されたのである(使徒行伝5.29)。 それゆえ、われわれは、次のような思いによって自らを慰むべきである。すなわち、「われわれは、敬虔からそむき去ることはしないで、むしろ、何かの苦痛を忍ぶならば、そのとき、主なる神が求めたもう服従を果たしている」という思いである。さらに、われわれの勇気がくじけることがないように、パウロは今ひとつの刺激をもって、われわれに警告を与える。いわく、「われわれはキリストによつて、かくも尊い価をもつて贖われた。―それは、われわれがもはや、人間の悪しき欲望への服従に身を捧げることがないためである。ましてや、かれらの不敬虔にわれわれの身を委ねるためではないのである」と(コリント一7.35) 神を賛美せよ。 (私のコメント) 繰り返すが、カルヴァンは、このところをもつて彼の主著を終えているのである。 人気ブログランキング にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2017-11-05 00:12
| 随筆
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||