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切支丹禁制の高札は、維新政府によって一度立てられたのだが、明治6年(1873年)2月に撤去されている。その間の事情がよくわからずに来たので、『日本キリスト教史』で調べてみた。121頁に、切支丹迫害の記事の後に、こう書いてある。
その間、プティジャンは、教書の編纂に努め、キリシタン版の再刻や新編など数十種の異色ある教書を秘密出版、彼らを秘かに司牧する一方、外交団に働きかけて禁教令の解除を運動した。たまたま安政条約改正下準備のため米欧を回遊した岩倉大使一行が至る所で、日本における迫害を難詰され、それが政府を動かし、1873(明治6)年2月、切支丹禁制の高札が撤去されるに至ったことは周知の如くである。流罪信徒らも前年秋から待遇も改まり、浦上に送還を許されるようになった。 この岩倉使節団は、今後の政治政府をどのようにたてていくか、欧米にいわば修学旅行に出かけたわけであるが、その際、不平等条約を改正したいという願いもあり、そのために欧米諸国に働きかけることも目的だった。ところが、切支丹迫害のことをなんとかしろと言われて、立ち往生してしまい、それが切支丹高札撤去の原因となったのだった。この1873年に明六社というものができている。岩波文庫に『明六雑誌』というものが入っているが、明六社の機関紙である。これに寄稿したのは、森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、西周氏たちである。森有礼は後に初代文部大臣になった人で、大日本帝国憲法公布の日に、今でいう右翼の人によって刺殺された。その子が森明牧師であり、孫が森有正、関屋綾子である。 人気ブログランキング にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2017-10-04 23:30
| 随筆
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