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これには、サブタイトルがついている。「禁書『国体の本義』を読み解く」。
産経新聞社発行のもの、2009年12月30日に出されたものを私は読んでいる。購入したのは、2012年6月2日である。この本を購入したのは、店頭で、この本を見つけ、驚いて、中身を本をパラパラと開いて、大体の見当をつけた時、これは読まなければならないと思って、購入したのである。しかし、三分の一ほど読んで大体の内容がわかったし、自分の勉強にはならない、他のものを読んだ方が時間を有益に使えると思ったので、途中で放り出したのである。変な人だ、と思った。それに危険な人だとも思った。それで知人たちに、この著作に目を向けるように、また、だれか全体的に批判するべきだと、特に牧師仲間に知らせたことがあった。しかし、ほとんど全くぐらい反応がなく、わたしも別の問題をかかえていたので、そのままにしておいた。 しかし、日本会議のようなものがでてきたし、キリスト新聞を見ていても、民族主義的なクリスチャンたちが「日本的キリスト教」を唱道するような意見広告が二度にわたり掲載されるようになり、昨年の教団総会では、一人の議員の牧師が民族主義者であることをうかがわせるような発言をした。キリスト教会においても、民族主義的な蠢動が起きていると私は感じている。 わたしが、佐藤氏の、この著書に関心を持ったのは、その当時、わたしも『国体の本義』に関心を持つようになっていたからで、それは、わたしが自民党新憲法草案を検討する中で、関心を向けるようになったのである。 わたしは、2006年4月号の『福音と世界』に「改憲というよりクーデター」と論文を寄稿した。これは、2005年に、自由民主党が、結党50周年を記念してまとめた「自由民主党新憲法草案」の問題点を明らかにしたものである。この「自由民主党新憲法草案」は、小泉政権時代に出されたものであって、民主党政権時代に下野していた時出された「自由民主党憲法改正草案」とは違うものである。自民党は、ふたたび新しい憲法改正草案を発表した。それは、小泉政権時代より、ひどい内容の草案を発表したのである。今日、自民党の改憲案として国会などで論及されているのは、この自民党が下野した時のものである。 わたしが、『福音と世界』に載せてもらったものは、小泉政権時代に発表されたものについて論じたものだった。2005年だったから、もう12年近く前のものである。しかし、わたしは、この2005年版のものと、2012年版のものは思想的には同質のものだと考えている。確かに、2005年版のものより、2012年版のものの方が前進しているところがあり、それまで隠れていたものが顔を出している。しかし、同一の思想で新憲法草案ならびに憲法改正草案が作成されていることは、私には明らかであると思われる。つまり、2005年版ではまだ、隠して言わなかったことを2012年版では隠さず書いているだけである、ということである。これは2012年版の方が、個人の否定の度合いが強く、国家の強調の度合いが強いということがあるにしても、そうである。 私は、ブログを始めたのは「そうはちのコラム」というのが初めであるが、これは2005年に出された自民党の新憲法草案の逐条解説を試みたものである。それは、「そうはちのコラム」と入力して検索して下されば、すぐ見つけることがおできになるだろう。わたしは、そこで20条ぐらいまで解釈を試みていたが、自民党政権が倒れたので、そのあたりで、このブログは継続する気持ちを失った。 さて、この2005年版の自民党新憲法草案を読みながら、わたしは、この不快感はどこから来るのだろう、と思っていた。現在の日本国憲法と極めて異質なものが、新憲法草案の起草者たちのこころにあることが感じられたのである。 そうしたとき、私は『国体の本義』というものを読んでみたいと思うようになった。本屋で見たことはなかったが、ネット検索してみればわかるかもしれないと思って「国体の本義」と入力して検索してみた。そうすると、現代語訳が載っていた。私はそれを全部ダウンロードし、印刷して読み始めた。そして驚いた。わたしは、この『国体の本義』というものは、共産主義を批判したものだと予想していたのであるが、いわば「個人主義」の批判・否定というものをそこに見出したからである。そして、全部読み終わった後、「これこそ、自民党新憲法草案の魂だ」と思った。 それで、佐藤優氏の著作『日本国家の神髄』の題の前に「禁書『国体の本義』を読み解く」という文章がついているのに気づくや、私はこの本を購入する気になったのである。 佐藤優氏に対する私の根本的な疑問は、キリスト者ならば、唯一の神を信じるのが当然だろうに、佐藤優氏は日本の神々を信じているように思われるからである。イエスは「神と富に兼ね仕えることはできない」とおっしゃっていて、「神と神々に兼ね仕えることはできない」とおっしゃることもできたはずである。唯一なる神と日本の神々を同時に信じることはできないはずである。ところが、佐藤優氏はそれができるようにふるまっている。 わたしが思っている聖書の箇所は以下のところである。 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。 「あらゆる掟のうちで、どれが第一の掟は、これである。 『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟はこれである。 『隣人を自分のように愛しなさい。』 この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12.28~31) キリスト教信仰によれば、神は天地を創造された神、御子イエス・キリストをわたしたちの救いのために、わたしたちのもとにお遣わしになった神以外に存在しないのである。この神と日本の神々を同時に信じることはできない。 ちなみに『日本国家の神髄』の目次は以下の如くである。 まえがき 序章 忘れられたテキスト 第一章 日本がつくる世界史 第二章 永遠の今 第三章 高天原の斎庭の稲穂 第四章「海行かば」と超越性 第五章 まこと 第六章 神の国である日本 第七章 敷島の大和心 第八章 没我帰一 第九章 国民文化 第十章 君民共治 終章 普遍主義の幻想から国体の再発見へ あとがき あとがきで、佐藤優氏は、以下のように書いている。 『国体の本義』という忘れられたテキストをもう一度甦らせようと思った最大の動機は、本格保守政権と期待された安倍晋三政権の崩壊後、日本の右翼、保守思想を立て直すために、近過去の思想的遺産を発掘することが焦眉の課題と感じたからだ。 この「あとがき」の最後に、佐藤優 皇紀二六六九(平成二十一、二〇〇九)年十二月とある。「皇紀」とあることに注意していただきたい。わざわざ、そう書いているのである。 にほんブログ村 人気ブログランキングへ
by kokakusouhachi
| 2017-01-15 16:59
| 随筆
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