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そういう決意を抱くに至っている。たとえば、わたしは古郝荘八というのであるが、古郝は、家の名前であり荘八が名なのである。だから、古郝だけでは、わたし個人とは特定できない。古郝は家の名前だからである。
このことを徹底して考えると、結婚して一つの姓になることは問題で、夫婦別姓ということを主張するのは、過程としてはいいけれど、やはりまだ家というものにこだわっているということになるだろう。つまり、姓だけで呼び合っているなら、家制度をまだ認めていることになるかもしれないのである。 ここで思い浮かんで来たことは、すべての人が姓を持つようになったのは、明治維新以後のことではないか、ということがある。これは、たぶん戸籍制度と関係しているのだろうが、明治以後、新しく家族制度がつくられて、「家」と「国家」が、同質のものとなるようにされたのではなかろうか。戸籍制度は徴兵制のためだと聞いたことがあるが、このあたりの勉強をいつかはしたい。 わたしは、野田正彰氏の著作を読んでから、ずっとそのことを考えているのだが、日本では今、姓のないのは天皇家だけである。それは、なにかしら違和感をいだかせるものがあったが、たしか明治以前の日本では、多くの人には姓がなかったのではないか。貴族や武士は別として。 そして、私は自分達が信じているイエス・キリストが、ただ「ナザレのイエス」という呼び方で呼ばれているのを思い出した。聖書において、たとえば「ヌンの子ヨシュア」という呼び方で、モ-セの後継者は呼ばれる。しかし、モ-セはモ-セなのである。 私は最近、本当は姓などなくして、名だけにした方がいいのではないか、と思い始めているところである。以前には、姓のない人たちをどこか馬鹿にしていたようなところがあった。しかし「はつぁん、くまさん」と呼び合っていた世界の方が個人を大事にしていた世界ではないのだろうか。 明治維新は、四民平等を実現したというけれど、戸籍をつくって、徴兵制をつくり、国民皆兵にして、すべての人を武士階級にしたというように考えることもできる。少し、無理があろうが。何故なら、各家庭に銃があったり、刀があったりするわけではない。その点では、アメリカは武士社会なのかもしれない。 これは、フルネームにこだわり出して、いろいろ考えたことの一部である。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-12-09 10:46
| 随筆
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