最新の記事
以前の記事
カテゴリ
記事ランキング
ブログジャンル
最新のコメント
フォロー中のブログ
風のたよりー佐藤かずよし 日本がアブナイ! 広島瀬戸内新聞ニュース(... そうはちのコラム そうはちのコラム2 御言葉をください 命最優先 大山弘一のブログ 放射能に向き合う日々 世に倦む日日 社会の動向・住まいの設計 最新のトラックバック
検索
タグ
キリスト・イエス(3643)
教会(3000) 安倍晋三(2024) 森友学園(1566) 加計学園(1390) 共謀罪(159) 日本基督教団(137) 佐藤優(64) 天皇制(42) 辞書(36) ブログパーツ
外部リンク
ファン
メモ帳
ライフログ
その他のジャンル
画像一覧
|
聖書の見解では、人間の死というものは、人間の罪と分かちがたく結びいていて、人間が罪を犯したから、死ぬようになった、というのです。神様は、愛をもってこの世界をつくり、その世界の中で人間をつくられたのに、その人間が死ぬのを喜ばれるだろうか、ということがあるのです。天地万物を創造された神が、そして塵から人間をつくられた神に、死人を復活させることがおできならないということがあるだろうか。
それでも人間が生きることができないのは、その罪のせいだということです。罪とは神に逆らうことであり、神はご自身に逆らう者たちが生き続けることは望まれなかったのです。人間の問題は、死より「罪」であるというのが、聖書の見解なのです。だから罪の問題が解決されてはじめて「死」という問題も解決される。その解決のために、キリストは来られ、十字架の死を引き受けられた、罪を取り除き、わたしたちに命を与えるためであったと、聖書は言うのです。 バッハは、ルターの歌詞に曲をつけて、有名なカンタータ「キリストは死の絆(縄目)につきたまえり」を書きました。Christ lag in Todesbanden です。その曲を聴くのが一番なのですが、ドイツゴですので、その翻訳だけ、ご紹介します。 第1節(合唱) キリストは私たちの罪のために 死のきずなに着いておられたが、 ふたたび甦られて、 わたしたちに命を与えたもうた。 それゆえ私たちは喜び、 神をたたえ、感謝して 歌おう。ハレルヤ。 ハレルヤ。 第2節(合唱: ソプラノ・アルト) 死に打ち勝つことのできる者は 人の子の中に誰一人いない。 私たちの罪のゆえにそうなったのだ。 罪のない者は一人もいない。 だから死がいち早く来て、 私たちを捕え、 死の国に私たちを押し込んでしまった。 ハレルヤ。 第3節(合唱:テノール) 神のみ子なるイエス・キリストは、 私たちの代わりに来て、 罪を取り除かれた。 それによって死は、 すべての権能と力を奪い去られた。 今残るものはただ死の姿のみで、 そのとげは失われた。 ハレルヤ。 第4節(合唱) それは不思議な戦いであった。 死と生が戦って、 生が勝利を収めた。 生は死を呑み下した。 聖書に記されているように、 死はたがいに喰いあって、 物笑いの種になった。 ハレルヤ。 第5節(バス独唱) これこそは神の命じたもうた まことの過越の子羊。 十字架の上に 熱い愛に焼かれたもう。 血は私たちの扉の印しとなり、 死に向かって信仰者はその印しをかかげる。 殺戮者は私たちに、もう害を加えることはできない。 ハレルヤ。 あと2節ありますが、ここでやめます。 今、読みました歌は一言で言いますと、 「死の力は打ち破られた」ということです。イエス・キリストによって死の力は打ち破られた、ということです。 私たちは、「死」というものは自然法則であって、このような自然法則に逆らう復活などあり得ないと考えます。しかし、新約聖書は、死は打ち勝ちがたい自然法則ではないし、その死の力をイエス・キリストは打ち破られた、と言っているのです。 今日は、逝去者記念礼拝です。永眠者記念礼拝です。 その礼拝になぜ、わたしがこのようなことを話したか。それは、既に死んでしまって、会うことができなくなってしまった人たちに、わたしたちは再び、お会いすることができるということをお話ししたかったからです。イエス・キリストが十字架の上で死なれ、神の力によって復活させられることによって、そのような道がわたしたちの前に開かれているからです。 イエス・キリストは、今活きておられます。その方こそがわたしたちの希望なのです。そのイエス・キリストのもとに、みもとに召された方たちがいらっしゃるのです。このイエス・キリストを一心に見つめて歩むなら、そのかたわらにいらっしゃる逝去者の方たちとまたお会いできるでしょう。 今日お読みしました箇所のナインの若者も、今は生きていません。しかし、母親は慰められました。その母親もまた今活きてはいません。しかし、この物語はわたしたちのために書き残されたのでした。それは、わたしたちが慰めを受け、希望を持つためです。 やがてイエス・キリストが来られる時、この母親もこの若者もわたしたちの前に姿を現すことでしょう。前の写真立てに写真のある方たちもそうです。 恵みと慈愛に富み給う父なる神様 このようにして御言葉をお与えくださいましたことを感謝いたします。 どうか、今日、聖書から聞いたことをわたしたちがよく心に思いめぐらし、このことによって慰めを受け、希望を持つことができますように。 わたしたちいつかはみもとに召される時が来ることを思います。 どうか、その時までわたしたちを守り、導いてください。 そして、この復活の福音が、死の陰の谷に住む多くの人たちに光として告げ知らされますように。そのことによってあなたの御名がほめたたえられますように。御子イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-11-29 21:13
| 随筆
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||