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杉山好訳。107頁。アルトハウスは、ルター派の人で、バルトとの関係で、わたしも名をよく読んできたが、原著は1966年に出版されている。
アブラハムは約束を受け取ったが、キリスト者はイエスの甦りの証しを受け取る。キリスト者もまた、死に直面して生命を信じる。すなわち、キリストの死によって審きを受けた彼は、キリストの復活の日に自己の義認をつかみ取ることを許されるのである。キリストは、わたしたちの罪のゆえに、そして、この罪を贖うために死なねばならなかったように、神がいまや成就した贖いに基いてわたしたちに義認を賜ろうとするがゆえに、神はイエスを死から呼び起こしたもうのである。イエスの甦りがなければ、わたしたちの義認は現実のものとならなかったであろう(コリント1、15.17参照)。したがって、パウロは義認がキリストの死と共に起こった(神の前での)できごとであると知っているにもかかわらず(5.9)、義認の信仰は復活の出来事の証しに終始固着して、いわば復活信仰そのものなのだ。すなわち、義認の信仰は(観念的な信念ではなく)、徹頭徹尾、神の救済のできごとに根ざしているのである。逆にまた、神の救済のできごとの確信である復活信仰こそ、義認の信仰にほかならない。つまり復活の信仰的事実は、いまここで神の前に立つわたしたち自身の実存と、のっぴきならないかかわりをもって、わたしたちに全的に迫ってくるできごとであって、このかかわりの中でのみ現在の活事実となる。 これも、ローマ4.25についての註解である。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-08-10 16:41
| 随筆
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