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さて、わたしたちは今、ヨハネによる福音書を読んでおります。そこで、イエス・キリストがおいでになり、さまざまな人たちに、一人一人に声をかけられているのを読むのです。イエス・キリストを通して、一人一人の人に語りかけられたのです。そして、イエス・キリストによって語りかけられた人は、もうその声を忘れることはできなかった。神が語られた、からです。神の言葉を聞いた人にとって、「神が存在するか、しないか」という議論はほとんど意味のないものです。神が自分に語られたと信じてしまったものは、それを忘れることができないのです。こうして、新しい歩みが始まります。
今日の聖書の個所では、ナタナエルという人が、キリストに出会う、神の言と出会うということが起きています。イエスをメシアと信じる、という出来事がおきている。イエスを神の子と信じるという出来事が起きています。 その場合、注意していただきたいのですが、この出会いは、イエス・キリストの方から、始められています。ナタナエルが主導権をとっているわけではありません。まず、イエス・キリストがナタナエルを見ていらっしゃる。47節の文章に「見た」という言葉が使われています。こう書かれています。 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」 まず、イエスがナタナエルを見られたのです。ナタナエルは驚いて、問うています。 「どうしてわたしを知っておられるのですか」 そうすると、イエスは答えられています。 「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」 ここのところで、一番大事なことは、イエスが千里眼をもって、あらかじめナタナエエルを見ておられたということではありません。すでに、イエスはナタナエルを、キリストを信じる者として、救いにあずかる者として知っていらした、ということの方が大事です。神の救いの計画の中で、ナタナエルを見ていらした。ここで「いちじくの木の下にいる」と言われていることは、旧約聖書の言い方では、神の下で祝福を受けている、という意味合いです。 ですから、ナタナエルがイエスを見る前から、イエスはナタナエルのことを「イチジクの木の下にいる者」として知っていらした、見ていた、ということが決定的に大事なことです。ナタナエルが、フィリポに連れられて、イエスのもとに行くということは、既に神様のご計画の内にあった。イエスがまずナタナエルを知っていらした。そして、ナタナエルがイエスを知ることになった。イエスをメシアと知ることになった。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」というのは、ナタナエルにそのことがわかった、ということです。 これは、こういうことがあるのです。わたしたちは、自分の方からイエス・キリストに出会い、イエス・キリストを信じるようになった考えがちです。しかし、ここで聖書は、反対のことを語っているのです。まずアクションを起こされたのは、イエスの方であって、イエスはフィリポに声をかけ、フィリポがキリストを信じる者とされた。それから、そのフィリポが、ナタナエルにイエスのことを教えることによって、ナタナエルは疑いつつも、イエスの方に歩み出した。イエスは、ナタナエルが御自分の方に向かってやってくるのを御覧になっていた。そうしたことの一切の主導権をイエスが握っていらした。 実は、こういうことが、わたしたちイエス・キリストを信じるようになった者たちにも、起きているというのです。イエス・キリストは、さまざまな仕方で、わたしたちが一人一人、イエスの方に向かってくるように導かれている。イエスは、フィリポを用いて、御自分の方にナタナエルを近づかせていらっしゃる。そうして、声をかけられ、語られたことによって、ナタナエルには、目の前にいるイエスが「神の子である」ということが突然、わかってくる。実は、そこに神様の隠れた働きがある。こうしてナタナエルは、イエスをメシアと信じ、神の子であると信じるようになる。終始、リーダーシップをとっておられるのは、イエスであり、神様なのです。そして、イエスは、ナタナエルに御自分が何者であるかを明らかにしているのです。ナタナエルは突然、神の子をそこに見出したのです。このようにして、わたしたちは神を信じるのです。神が、わたしたち一人一人に出会おうとしていてくださる。また、イエスにおいて出会って下さる。それは、すべて神様の導きというものがあるのです。こうして、イエス・キリストを通して、神に出会うということが、わたしたちに起こる。わたしたちは議論して、神様を信じるようになるわけではありません。イエス・キリストがわたしたちに働きかけかけてこられる。その中で、わたしたちは神に出会うということが起きるのです。そういう出来事、つまり出会いがなければ、わたしたちは神を信じることはできません。しかし、神に出会うという出来事は、他に比べることのできない経験で、一度、それを経験したものは、議論なしに神を信じるようになるのです。神を信じるということは、神との出会いなしにには起きないことです。イエス・キリストと出会うということなしには起きないことです。 恵みと慈愛に富み給う父なる神様 今日は、ナタナエルがキリストを信じたところを、皆さんとご一緒に読みました。わたしたち一人一人にも、イエス・キリストを通して、あなたが語りかけていらっしゃることを信じて感謝いたします。どうか、あなたを知らない人が一人でも多く、あなたを信じるようになるようにしてください。イエス・キリストによって、わたしたちに語りかけてください。そして、わたしたちがあなたを信じ続け、キリストに従い続けることがゆるされますように。今日、集うことの適わなかったお一人一人をその場、その場で守り、導いてください。御子イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-05-01 23:43
| 随筆
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