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その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言ってから、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネによる福音書20章19~23節)
わたしたちは、特に主イエス・キリストの復活を思う時にいます。教会には、いわゆる「教会歴」というものがあります。クリスマスや受難節、そして復活節、そして聖霊降臨を覚えるペンテコステというものが代表的なものです。この教会歴というものは、初代の教会にはなかったものです。それが何百年と立つうちに、教会の中で生まれてきました。私は、実は、それほど教会歴に重きを置いていないところがあります。イエス・キリストが受難された時、また復活されて、弟子たちに姿を見せられた時のこと、聖書が与えられ始めた時の事を、新約聖書は大事に覚えてきましたが、教会歴で一つ問題なのは、次第にイエス・キリストを待ち望むということが、なくなってきた、ということです。再び、イエス・キリストが来られると言うことが忘れられて、毎年、毎年、教会で同じ行事をすることが続き、まるでそれが永遠に続くかのように、次第に教会が思うようになってしまったことです。 そのために、教会は目を覚ましているべきときに、目を覚ましていることができなくなってしまううという問題が生じてしまった。かつてキリストが来てくださったということだけが強調されて、キリストが再び来られるということが忘れられると、教会は眠りこけてしまうということが起きるものです。「目を覚ましていなさい」と主は言われています。 わたしは、いつも思うのですが、もし「今、イエス・キリストが生きておられる」ということでなければ、イエス・キリストの復活に何の意味があるでしょうか。イエス・キリストは、十字架につけられて死なれたけれど、三日目に復活なさった、ということを聞いてどういう意味があるでしょうか。 イエス・キリストが復活されたということを信じるということは、今もイエス・キリストが生きておられる、ということでなければなんでもありません。それなら、仮死状態から一時生き返り、また死んだということになるでしょう。そして、死の持つ力は依然として絶対的なものとなるでしょう。イエス・キリストが復活されたということは、死の力を打ち破られたということであり、死の力を打ち破られたイエス・キリストはもはや死ぬことはないということです。イエス・キリストは、新約聖書が書かれた時も生きておられ、その後2000年近く教会が歩んだ時もその先頭におられたし、今も教会の前を歩まれているのです。そうでなければ、イエス・キリストの復活に何の意味があるでしょうか。 そして、イエス・キリストが今も生きておられるということは、わたしたち人間の中の一人の方が今も生きておられるということであり、わたしたちにも、永遠の命が与えられる希望がある、わたしたちにも復活の希望があるということです。 ある人が言いました。「イエスさまが復活されたことはわかります。けれど、それがわたしたちに何の関係があるでしょう。」つまり、イエス・キリストの場合は例外だ、というのです。しかし、そんなことのためにイエス・キリストは来られたのでしょうか。イエス・キリストが来られたのは、わたしたちが死んでも、イエス・キリストの復活の力によって、わたしたちも復活するためでなかったら、これまたわたしたちに何の関係もないことになってしまわないでしょうか。それなら、イエス・キリストはをたしたちの救い主とは言えません。 イエス・キリストが復活された、ということは、今もイエス・キリストは活きておられ、わたしたちもその復活の力にあずかれるといううことなのです。そして、今活きておられるイエスは、再び、わたしたちの前に姿を見せられるでしょう。そのときこそ、最終的な救い野時なのです。永遠に教会歴が続けられるということではないのです。教会歴がなくなる鬨が来る、イエス・キリストが再び来られて、教会歴を使わなくなる時が来るのです。 さて、イエス・キリストが来られるまで、わたしたちはイエス・キリストの姿を見ることはゆるされていません。キリストは今や、天の父の右に座しておられ、わたしたちからイエス・キリストを見ることができないのです。 わたしたちは、イエス・キリストは姿を見ることはできないので、残念に思っています。結局、イエスはわたしたちを見捨てて去って行かれたのではないか、という人たちもいるかもしれません。しかし、イエスは、十字架に上げられる前に、既におっしゃっていました。私があなたがたから去って行くのは、あなたがたのためになるのだ、代わりに弁護者を遣わすから、と。ヨハネによる福音書14章15節から20節までをお読みしましょう。197頁。 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるよにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-04-03 15:56
| 随筆
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