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これは、最近、しばしば思い出す言葉である。『臨済録』や『正法眼蔵随聞記』を読み返す気になった一つの理由はそこにあった。これは、少し、足元を見直すということを始めたからである。私は、サンダルなど脱ぎ捨てて、スリッパをはき、部屋に入ってしまうので、まさに脱ぎっぱなしという形なのである。自分でもそれは気づいていたが、「なに、気にすることはない。それよりしなければならないことかある」というような気持ちがあったのである。ところが、妻は、それが気になるらしく、しばしばそれを言われる。私とて、それでいいと思っていたわけではないが、そんな余裕はないという感じだったのである。しかし、最近、これはやはり改めた方がよいと思い始めた。実は、「襟」も正さずに、ひとがそれに気づいて「襟」が立ったままでいる私の襟に手をのばし、親切に直してもらったことは何度もある。誉められたことではないのだが、そういうところが私にはあった。
ところで、「看脚下」という言葉は、ある老人ホームの玄関に木の板に墨で書かれていた文章である。私は「靴をそろえて脱ぐようにということだな」と思って、それに従ったことがある。ただ、その時、これはたぶん禅の言葉だろうと思った覚えがある。 この「看脚下」というのは、しばらく前に調べてみると、まさしく禅の言葉だった。私は、西田幾多郎の弟子でもあった滝沢克己の言葉を思い出していたのである。彼は「インマヌエルの原事実」と言ったのであるが、それは西田幾多郎が禅をしていたことに関係していただろう。インマヌエルを言い出したのは、カール・バルトとの出会いが決定的だったろうが、滝沢克己は道元に関心があったに違いなく、『正法眼蔵』の一部をドイツ語に翻訳して、紹介していたことがあると思う。 そういうわけで、今の私は、靴やサンダルをそろえて脱ぐということを心がけ始めた。68歳にしてである。 人気ブログランキングへ にほんブログ村
by kokakusouhachi
| 2016-03-15 10:59
| 随筆
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