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ゲオで映画「マッカーサー」のDVDを借りてきて観たのだが、いろいろ考えさせられた。1977年につくられた映画で、グレゴリー・ペック主演。
わたしが衝撃を受けたのは、広島に原爆が投下された後、「玉音放送」など、全然描かれておらず、マッカーサーと天皇の会見なども全然描かれず、すぐミズーリ艦上の降伏文書の署名の場面に入ったことである。 日本では終戦記念日が、8月15日、ということになっている。しかし、アメリカ人は、9月2日の降伏文書調印の方が決定的だと思っている。契約文書を取り交わしたことが、決定的なのである。 8月15日を終戦の日とするのは、きわめて日本的な現象なのである。この日は、なんのことはない。天皇が、直接、国民に降伏を知らせた日なのであるが、内容はきわめてあいまいだと思う。今、わたしはこの「玉音放送」の言葉を分析してみたいのだが、その前にして明らかにしておきたい、ことがある。 ポツダム宣言が出されたのが、1945年7月26日。8月14日に、ポツダム宣言受諾を連合国側に、日本通告する。その一日後に、玉音放送、そして9月2日の降伏文書調印。つまり、この9月2日こそ、日本がポツダム宣言受諾に基づいて降伏を文書で認めた日である。この日こそ、日本が敗戦を正式に認めた日であろう。しかし、わたしたち日本人は9月2日の日をほとんど覚えていないだろう。 わたしが愕然としたのは、わたしたち日本人の歴史観がいかに天皇制に深く浸透されているか、ということである。 8月15日に起きたことは、普通「終戦」と表現される。しかし、「終戦」という言い方は、主体的ではない。「敗戦」という言い方が正しい、という議論がある。しかし、それは両方とも正しくないのだ。8月15日は、敗戦が国民に告げられた日に過ぎない。 しかも、9月2日も休戦あるいは停戦で、日本が降伏を正式に認めた日であって、これは講和の日ではない。講和の日はずっと遅くて、1951年7月のことである。 もう少し考えたことを続けて書けば、1945年8月15日に、日本人が終戦と思ったのは、大日本帝国憲法のもとでは、当然のことだったろう。しかし、なんと隣人なきものだろう、天皇制は。ここには契約的なものが何もないのである。天皇制が、隣人を見えなくしている、ということがあろう。 しかし、このことは象徴天皇制下でも、なお続いているように思われる。
by kokakusouhachi
| 2011-10-16 17:55
| 評論
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