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わたしはかつて、べテスダホームにいたとき、理事長以下そこの職員と飲み屋にいったとき、そこのおかみのような人から「この人は世に出ない人ね」と言われたことがある。それがどういう意味か、わたしにはよくわからなかったが、わたしのことが見抜かれたという印象を持ったものである。
ところが、わたしは今「世に出るようになってしまった」と思う。「福音と世界」9月号で「教会闘争ということ」という題で出したわたしの文章は、わたしの立場をはっきり示したもので、わたしは自分を人目にさらしてしまい、攻撃の対象としてしまったことを自覚している。ある意味でこれはこわいことだったが、わたしは長年の隠遁生活から、キリスト教界の中に姿を現してしまったという感想を持っている。 その直後の時期に体調を崩したのは、無関係ではない、と思っている。 わたしは長い間、ある線を越えられず、引っ込んでいたところがあったが、どうしてこのことがこう困難だったのか、と思う。 一つは教団の状況が、そのことを非常に困難にしていたことを思う。わたしは自分の出る幕ではないと思っていた。私の立場は孤独であると思っていた。だから、北村慈郎先生のことがなければ、そして、だれか、この問題にもって積極的に発言する人がいれば、喜んでその人に発言を任せ、自分は黙っていたろう。しかし、だれも言わないので、わたしが言うようになってしまったのである。
by kokakusouhachi
| 2011-09-17 16:50
| 随筆
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