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あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネによる福音書16章33節b)
今日は、ご一緒に礼拝をささげることをゆるされたことを感謝いたします。 さきほど、司会者の方に読んでいただいた聖書の箇所は、私が、自分の葬式の時に、読んでもらいたい、と思っている箇所です。今日は、八尾教会の皆さまと、ともに、新たな思いをもって、この個所から神の言葉を聞きたい、と思ってやってきました。と言いますのも、同じ聖書の箇所であっても、長い年月の間には、別の響きをもって聞こえてくるということがよくあることだからです。同じ神が、同じ私に語られるにしても、神はかわることがない方であるにしても、わたしは、かわることのある人間で、神は同じ聖書の箇所で、基本的には同じことをお語りになるとしても、別のニュアンスをもって、語りかけてこられるということはあるのです。 また、私一人で、聖書を読むのと、教会の集いの中で聖書を読むのは、また、違ったことです。神は、教会に向かって語られるのです。そして、わたしは神の教会の一員です。わたしは、これから、皆さまとともに、御言葉を聞きたいのです。 まず、ここで、語っていらっしゃるのは、どなたでしょうか。イエス・キリストです。ここで、「わたし」と言われているのは、イエス・キリストです。次に、ここで「あなたがた」と言われているのは、誰でしょうか。この「あなたがたは」と言われているのは、誰でしょうか。この「あなたがた」は、イエスの弟子たちです。そして、ここに集まっている「わたしたち」も「あなたがた」に入るでしょう。 さて、いつ、この言葉を主は語られたのでしょうか。これは、最後の晩餐の時に、語られたということになっています。ここで、ある程度、新約聖書を読んでいらっしゃる方たちの中に、マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書に書いてある「最後の晩餐」に書いてあることとずいぶん違うな、と思われる方がいらっしゃるかもしれません。そのことについては、ここでは話をしません。大事なことは、そうしたことではないからです。 大事なことは、ここでイエスは、もうすぐ自分は「罪人たちの手に渡され」最後は、十字架につけられて上げられる、そのことを承知で、これらのことを語られた、ということです。 さて、わたしは、このヨハネによる福音書16章33節の言葉を、少なくとも、36歳の時には、自分に与えられた代表的な御言葉だと意識していました。今から、39年ほど前のことです。そして、わたしは、自分の葬式の時は、この個所を読んでもらいたい、と思っています。この御言葉をわたしは、口語訳聖書で、覚えました。そこでは、こういう翻訳になっています。 「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」 先ほど、読んでいただきました新共同訳聖書とどこが違うかと言いますと、新共同訳で「苦難」の翻訳されているところが、口語訳では「なやみ」となっていました。その他は、ほとんど違いがありません。 どちらの翻訳がいい、と議論するつもりはないのですが、今度、説教を準備するため、原文のギリシャ語を読み、ルター訳のドイツ語訳、英語の訳を読んでみまして、今まで気づかなかったことに一つ気づきました。それは原語のギリシャ語では、「平和」を意味するエイレネーと「苦難」を現わすスリプシスが、対語になっているらしい、ということです。「平和と苦難」も対語になっているとは言えますが、「平和となやみ」の方がいいのではないか。つまり、わたしが最初に覚えた「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」の方が、いいのでは、と少し考えました。しかし、少しだけです。今、私たちは、今の新共同訳の33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたのは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」に集中したい、と思います。 私が、この個所を取り上げましたのは、この言葉は、主イエス・キリストの遺言のようなものだ、ということがあるからです。ある意味、この短い言葉に、福音のすべてが込められていると言っていい。主は、これから、ご自分が「苦難」を受け、十字架につけられ、死なれるのを覚悟されています。死の時が近づいている。その時に、「わたしは、既に世に勝っている」とおっしゃっているのです。「わたしは、これから、世と最後の戦いをする。そして、わたしは勝利をおさめるだろう。」とおっしゃているのではありません。「既に勝利をおさめている」と言われているのです。これは、あたかも、復活されたイエス・キリストの言葉のように聞こえます。事実、そう聞いてもいいのだろう、とわたしは思っています。 これは、ヨハネによる福音書だけでなく、新約聖書全体は、イエス・キリストは、主は今、活きておられるという大前提のもとに書かれています。あの十字架の上で死なれ、墓に葬られたイエス・キリストは、神の力によって、復活させられて、今も生きておられ、もはや死なれることがない、というのが、というのが、大前提になっています。今、この瞬間にも主イエスは活きておられる。 さて、「戦い」について語らなければなりません。「なやみ」にしろ、「苦難」にしろ、「戦い」なしには生じません。そして、イエス・キリストを信じる者たちは、「戦い」なしに、自分たちの生涯をまっとうすることはできません。ここでイエス・キリストが言われている「なやみ」あるいは「苦難」は「世との戦い」なしに、生ずるものではありません。キリストを信じる者は、「戦う者」にならざるを得ません。イエス・キリストの生涯は「戦いの生涯」でしたが、そのキリストに従う者たちも、多かれ少なかれ「戦う者」とならざるを得ないのです。イエス・キリストの生涯は、「罪との戦いの生涯」でした。それは愛の故の戦いの生涯でした。剣をとっての戦いの生涯ではありませんでした。「剣をとる者は、剣で滅びる」と、イエス・キリストは、剣をもってイエスをペトロが守ろうとした時に、言われました。イエスが戦われたのは、罪でした。罪につき動されて生きている人間たちの罪と戦われたのです。そして、最後は、世の罪を取り除かれました。イエス・キリストの「戦い」は「世の罪を取り除くための戦い」でした。 バプテスマのヨハネは、イエス・キリストを指さして、「見よ、世の罪を神の子羊だ。」(ヨハネ1.29)と言いました。「取り除く」と言われています。「世の罪を取り除く」神の子羊だ。「神の子肘」ということによって、この子羊が、神にささげられる犠牲だということが言われています。それは、遠くから、キリストの十字架上の死を指さしています。 イエス・キリストは、「世の罪を取り除く」ために、神から遣わされて、「肉となって、わたしたちの間に宿られた」のでした。 それでは、この「世の罪を取り除かれる」ことをイエス・キリストはいつされたのでしょうか。それは、あのゴルゴタの丘の上の十字架の上で、です。ヨハネによる福音書では、イエスの最期は、次のように書かれています。 イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 ヨハネによる福音書19章30節にあります。「成し遂げられた」と言われています。何が「成し遂げられた」のか。「世の罪が取り除かれた」のです。 このヨハネによる福音書と他の三つの福音書では、キリストの最期の言葉はずいぶん違います。しかし、わたしは、結局、同じことが言おうとされている、と思っています。今は、そのことについてお話しする時間はありません。 私は、さきほど、「キリストの戦い」についてお話しし、「キリストを信じる者たちの戦い」についても少しだけふれました。しかし、両者の戦いは、ある一点で、決定的に違います。キリストの戦いは、「世の罪を取り除くための戦い」でした。そして、その「戦い」は、十字架の上で最高潮に達し、キリストは「成し遂げられた」と言われて、息を引き取られたのです。何が「成し遂げられた」のか。「世の罪を取り除く」ことです。 それに対して、「キリスト者たちの戦い」は、「クリスチャンの戦い」は、最後に「自分たちの罪を取り除く」ためのものではありません。「罪なき神の子羊」以外に、「世の罪を取り除く」ことはできないのです。わたしたちは、「世の罪を取り除く」どころか、「自分の罪を取り除く」ことさえもできません。 キリストを信じる者たちの「戦い」は、イエス・キリストを指さしながらの「戦い」です。それは、マルコによる福音書8章34節から35節で、イエスが言われることと重なり合っています。 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」 さて、最後に「世」について、語る必要があります。「わたしは既に世に勝っている」と主は言われていますが、この「世」とは何でしょうか。 ヨハネによる福音書を注意深く読んでいますと、「世」という言い方と「この世」と言い方があります。この二つの表現が言おうとしていることは、基本的なところでは違いはありませんが、「この世」という言葉が使われているところで、「悪魔」が登場するところがあります。ヨハネによる福音書12章31節に、イエスが御自分の死について、こう言われているところがあります。「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」ここで、「この世の支配者」と言われているのが、「悪魔」「サタン」のことなのです。つまり、「わたしは既に世に勝っている」と主が言われた時、それは悪魔に勝利を収めている、ということも意味しているのです。 ここで、悪魔・サタンが「この世の支配者」だと言われていますが、「この世の支配者」とは悪魔ではなく、イエス・キリストが「父」と呼ばれている神様のことではないか、と思われる方々がいらっしゃるかもしれません。そのことは、このヨハネによる福音書を書いた人にもよくわかっています。 ヨハネは、この世界、コスモスが、神によって造られた、と書いています。この福音書の最初に、こう書かれています。「初めに言があった。言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」 つまり、神はキリストによって、この世を造られた、世はキリストによって造られた、と書いてあります。それならば、世は当然ながら、もともと神のものではないか、キリストのものではないか、「この世の支配者」は神であり、キリストではないか、ということになります。しかし、ここに「罪」が登場するのです。この世が神に逆らう。造られたものが、造った方に逆らう。実に不可解で、説明のつかないことが実際起きている。そこで、罪が人間を支配し、死が人間を支配し、悪魔が人間を支配する、という現実が起きてしまっている。 この現実を根本から改めるために「言が肉となって」「わたしたちの間に宿られ」、この方が「神に逆らう世と戦い」、十字架の上で、「世の罪を取り除かれた」。ヨハネはそう書いて、「永遠のお生命」を受け取るように、わたしたちにすすめているのです。 さて、このあたりで終わりたいと思います。最後に、今日の聖書の箇所をお読みします。 あなたがたにはこの世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。 これを私なりに、言い換えますと、こうなります。 あなたがたには世で苦難がある、悩みがある、不安がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。わたしは既に罪に買っている。悪魔に勝っている。死に打ち勝っている。わたしは活きている。だからあなたがたも活きる。 お祈りします。 恵みと慈愛に富み給う父なる神さま 今朝は、八尾教会の皆さまと共に礼拝をささげることが許されたことを感謝いたします。 今、あなたに示されたことを精一杯、取り次ぎました。 どうか、これらの御言葉に、わたしたちが慰められ、力づけられ、勇気をもって、あなたに従っていくことができますように。 わたしたちの罪によって、日本だけでなく、世界中で、今日もなお、 多くの悲惨が起こり、多くの嘆きや、悲しみがあることを思います。 わたしたちに理解できないようなこと、 わたしたちには、どうしようもないことがあります。 しかし、あなたは愛する独り子をわたしたちのもとに送ってくださいました。この闇の中にあるわたしたち、死のとりこになっているわたしたち、道を失っているわたしたちに道を開いてくださいました。 あなたの計り知れない愛に感謝いたします。 どうか、日々、御言葉を与え、聖霊を与えて、わたしたちを導いてください。 わたしたちを、平和をつくりだす器としてください。 そして、最後に、約束に従って、 再び、イエス・キリストをわたしたちのもとに送ってくださり、 義の住む新しい天と地を出現される時、 わたしたちに、あなたの栄光を力強く賛美させてくださいますように。 今日、この場い集うことのかなわなかったおひとりひとりにも、 神の恵みと平和がありますように。 御子イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。 人気ブログランキング にほんブログ村 #
by kokakusouhachi
| 2023-09-07 23:11
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by kokakusouhachi
| 2023-09-07 09:11
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by kokakusouhachi
| 2023-09-06 09:29
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by kokakusouhachi
| 2023-09-05 09:45
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by kokakusouhachi
| 2023-09-02 09:23
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