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史的イエス研究は、エレミアスの「イエスの宣教」をもう一度、読むことで、少し本格的にしようかとも思っている。固い決意ではない。その前に旧約聖書をよく読む必要がある。その上でのことである。
バルトは、史的イエス研究に相当否定的だったし、ブルトマンもそうだった。しかし、バルトの弟子であった滝沢克己は一概に否定的ではなかった。 バルトは復活のイエス・キリストを第一に始めたが、エレミアスは地上の史的イエスを第一にした。その点での違いは大きい。 それでも、エレミアスをもっと研究してから、自分の立場を決めればいいと思う。たぶん、今までと決定的に違うところに立つことはないだろう。 ボルンカムの「ナザレのイエス」は史的イエスについての代表的な著作として有名だが、わたしはあまり感銘を受けなかった。3度くらい読んでいるのだが。田川建三の「イエスという男」は、強烈で、神を信じない人がイエスをどのようにとらえるかという一つのよい例となっている。賛成するかどうかは別として特筆すべき著作であることは、しかも学問的にも侮れない書物であることはまちがいないであろう。しかし、田川建三氏についていくことはないだろう。 やはりエレミアスから学ぼうか、と思う。
マルコによる福音書1章10節から15節までのまとまりの中で考えると、聖霊がイエスに降ったところから神の国が来ていると言えないことはなかろう。それを指摘しているのを読んだことはないが。イエス・キリストが聖霊に満ちて、わたしたちに臨まれるとき、そこに神の国は現在しているのである。
「神の国は近づいた」という言葉の原文は、どうなっているか。これは、「神の国は迫っている」と翻訳できないだろうか。そういう訳を読んだことはないが。どうだろう。
アラム語原文から言えば、「神の国は来た。」と翻訳できる、と田川建三氏は言っている。
昨日、説教準備をしてからずっと考えたり、読んだり、調べたりしてきて、はっきりしてきたことがある。読んでいたのは、新教新書に入っている「新約聖書の中心的使信」(エレミアス著)の中の「史的イエスの問題」である。いろいろ、考えさせられた。細かいことはまた書くとして、覚えの程度に。
イエスご自身が「受肉した神の言葉」であって、「神の国」であったこと。イエスの復活は、イエスが「受肉した神の言葉」であり、「神の国」であったことを明らかにした、ということ。 また「神の国」は「聖霊の国」でもあって、わたしたちの身にも及んでいるということ。
今日の「和」での家庭集会のために昨日、説教原稿を書いたが、その後マルコによる福音書1章14,15節について新たに考えたことをメモしておこう。そして、次回の家庭集会で引き続いて話そう。
ひとつは「時は満ちた」ということ。これは、神が時を満ちさせられたということが基本にあるにせよ、大事なことが聖書に書かれているのを忘れていた。 時は満ちた、と言われたとき、それはヨハネが逮捕された後で、それまで時代の最先端にいたヨハネが退場することになり、イエスご自身がヨハネにかわって、人前に出るようになったことを意味する。そして、ヨハネの逮捕は、イエスの登場が緊張をはらんだものであったことを示している。厳しい時代状況の中に最先頭に立って、歩み始められた、のである。それと、イエスご自身がヨハネから洗礼を受けられ、そのとき、聖霊がイエスの上にくだり、父なる神がイエスに語られたこと、またその後、聖霊によって荒野に導かれ、そこでサタンの誘惑に遭われたこと、そうしたことの一連の出来事が既に起きていたこと、これも時が満ちたことを意味している。「神の国は近づいた」はイエスの洗礼の出来事、聖霊降臨の出来事、父なる神の声を聞いたこと、荒野でサタンの誘惑を打ち破られたこと、それらすべてを意味しているだろう。 そうしたこと一切が、ヨハネが逮捕される以前に起きていた。いわば、メシアとして働く前にねイエスは神の賜物によって装備されていたのである。そして、ときあたかも、ヨハネが逮捕されることによって、イエスはついに時が来た、と思われたのであろう。ヨハネが歴史の舞台から退場すると、その後、すぐイエスは前面に出られたのである。立ち上がられたのである。 おそらく、このことは、マタイやルカ、ヨハネでは読みとることが困難なことだろう。
明日の家庭集会のための説教準備をした。マルコによる福音書1章14,15節からの説教。いつもながら「神の国」とは何だろう、と考えてしまう。なんとか、人に伝わるように言いかえたいということもある。
そして、説教原稿を書き上げた後、カルヴァンの注解書を読んでみて、カルヴァンが「天国」のことを「真の、そして、完全な幸福」と表現しているのに気づいた。前にも、そのことに驚いて、注解書の空白欄に書き込みをしていたのである。「幸福」という言葉は、なんとなくカルヴァンにふさわしくない、という思いがあったからか。しかし、もう忘れないだろう。カルヴァンは「神の国」と「幸福」を結びつけたのである。アウグスティヌスが「清い幸福」「浄福」を言ったのに対して、カルヴァンは「真の、完全な幸福」と言ったのであるが、少し驚いた。
明日、「和」(なごみ)という老人ホームでの家庭集会の準備。
説教原稿ができたら、また投稿する。
チェルノブイリの原発事故が起きたとき、チェルノブイリが「にがよもぎ」という意味であり、黙示録の8章9節を思わせる、と言われた。今や、それに匹敵することが、この日本に起きたのである。片岡輝美さんは、福音書の小黙示録的なところで、幼子を持つ母親のことについて言われているところを思い浮かべたと言われた。
わたしは、神学校卒業の時、三つのテーマを持っていたと書いて、そのことをめぐって、このブログにも何回か書いた。しかし、一つ書いていなかったことがあった。
それは、わたしが「希望」を強く抱けず、なんとか「希望」を持ちたいと思って、モルトマンの「希望の神学」を読んだことを思い出す。翻訳のせいもあってだろう、この有名な書物からはほとんど何も得なかった。 それ以後も、モルトマンを読んでみたが、バルトほどの深みを感じなくて、読み続ける気になれなかった。とは言え、翻訳されたものはなり購入して、読もうという気はまだ残っている。 結局、希望の神学、希望を語るということが、わたしの求めるところとなった。長崎飽之浦教会に赴任したとき、わたしは多くの解決すべき問題を抱えていたのである。 イエスは生きておられる。 主イエスは、ふたたび来られて、わたしたちを闇から光に導き、すべての敵は彼の足もとにひれふすであろう。
わたしは確かに、あのとき、ベテスダホームに「神の国」が近づいていたのを感じていたのである。主の言葉が決して滅びることがないという動かない永遠性ではなく、今なお「神の国は近づいた」という動的なもの、近づいてくるものを強調すべきではなかろうか。
わたしの信仰は、最初から黙示録的だった。終末論的だった。主の再臨を待ち望むところがあった。そうであればこそ、ブルームハルトやバルトに親近感を持ったのである。 ボンヘッファーにしても、二人ほど主を待ち望むということを言わなかったにしても、主の再臨を信じていたとうかがわれるところがある。 20世紀には主の再臨を待ち望む人が増えたのではないかと推測されるところがあるが、これは、全世界的危機の時代に入ったせいもあろう。内村鑑三が再臨運動を始めたのは、第一次世界大戦が起きた後のことであった。 自分の身におきたことを中心に置くのではなく、主の言葉に中心を置くこと。 「滅びない」と強調するのではなく「近づいた」と強調すること。
今まで、わたしは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マルコ13.31)についてばかり書いてきた。これは、わたしを救った言葉だからである。しかし、それほど劇的であったわけではないが、28才のときS氏との闘いのとき与えられた御言葉があることを今思い出している。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1.15)
その言葉が心に浮かんできたのは、ベテスダホームでのわたしの闘いが最高潮になってきたころのことである。わたしは、そのことに少しとまどっていた。この「主の言葉」を口に出して、宣教しようという気持ちになっていたわけではない。けれども、あの時、ベテスダホームにいた人たちに主の言葉が臨んでいたのではある、と思う。 ふと、考える。「わたしの言葉は決して滅びない」という言葉の「決して滅びない。」の方に励まされてきたのであるが、この「わたしの言葉」とは何であるか、あまり考えてこなかった。しかし、主の言葉を一言でまとめると「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1.15)ではないか。この言葉は希望の言葉なのである。「滅びない」ものがある、「滅びることのない言葉」がある、という意味で。しかし、福音はただ滅びることのないものがある、というだけでではない。その滅びないものとは何か、ということであるが、それは主イエスの言葉である。しかし、それはただ言葉だけではない。この言葉を語られた主イエス・キリストは一度は死なれたが、 復活して、もはや死なれることはない。だから滅びることがないのは、主ご自身もそうなのである。
わたしは、最近、わたしたちが何に支配されているか、ここで゜いくらか論じた。そこで、わたしたちは、アメリカ、天皇制、富(資本主義)の支配のもとにあると書いた。それを訂正する必要はない。また、聖書によれば、それは「罪、死と悪魔の支配」という次元で語ることもできた。それは、最終的には「神の支配(神の国)」によって、打ち破られる支配である。イエス・キリストが来られ、この地上で生きられ、死なれ、復活されたことによって、それは決定的な基礎を据えられている。ここにこそ、わたしたちの希望がある。
しかし、わたしは、ひとつのことを書き落していた。たぶんあまりに身近であったから。それは、人類絶滅の恐怖だった。そのような恐怖がわたしを見動きとれないものにしてきた。その恐怖を克服しながら生きることが、わたしの生きることの重要な側面だった。 米ソ冷戦が終わっても、黙示録の時代は過ぎ去ってはいないということを思わされている。
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